ファッショナブルブーツと名作の由縁

「徳島の高校生男子が真夏に質実剛健なワークブーツをはいて足取り重そうに仲間でチャリ通学」しているのをみかけ、ついの失笑をおさえるのに苦心する。この際に自分に言い聞かせるのは「若さはバカさ」「通学遍路」とかでは足りず、「ファッショナブルとはリーズナブルの対極」でやっと一息つける。
同じように、ランボルギーニをローダウン、インチアップしてブーストアップでフルエアロで夏の雨の夜にスーパー林道を走っている人にであったら、アッパレ応援したくなるだろう。若者は元気にいい気分のままでいてほしい、のでワークブーツ履きの高校生にはあまり読んでほしくない。賢いやつばかりじゃ世間はつまらない。




東京人が足元に気を使うのは、必要性から、理由(Reason)があるからだ。15分くらいは毎日早足で歩くし、満員電車で足を踏まれたりする。そしてとにかく人同士「足元を見あう」ので必然と靴に見栄を張る。「移動は車が基本」の田舎では足元を見せる機会も少なくなり、実用性も求められず足元はゆるくなる。
高校生は学校に着けば、靴を履き替える、教室では上履きですごし、運動靴で体育や部活動を行い、帰宅時に再度靴を履くので、履き替えは便利なほうがよい。男性は若い方がそして夏の有酸素運動は特に発汗しやすい。自転車用の靴となればペダル回転慣性の最外側でもあるし、自力推進なので靴に限らず、グラム単位で軽いほうが有利だし、できるだけ外形がコンパクトなほうがチェーンとかに干渉せず漕ぎやすい。
ワークブーツは、頑丈で重量があるし、くるぶしを覆う形で紐を結ぶのでもちろん履きにくく脱ぎにくい。”流行に左右されない”流行のアンティークかつスタンダードな皮革のブーツは大きく分厚く、保温防水防湿効果も抜群だ。

この痛快なほどの究極のアンマッチ、ちぐはぐさこそが”ファッショナブル”なのであろうし、たぶんに反社会的な主張をこめた不良スタイルでもあるのだろう。想像するに難くないその不便で不利で不快の苦行を平然とうけとめ意地を貫くことも男の道で、目立とうとすることは、女子にモテる最初の最少条件だ。常人は、夏の徳島ではずっとビーチサンダルが快適だが、大人は運転もするので穴あきクロックスが便利、スクーターにもクロックスが快適で、できればソックスも履きたくはない。

「ワークブーツ好き」なのは、「戦車好き」とかと同様に機能美に触れ、活躍する現場に憧憬を抱き、利を排し美を選ぶのであろう。時代と場所を超えて美しいものは愛されて残るし、機能性は時代に淘汰されても、芸術として評価されるものになりうる。

時代と場所を越えて届くものは、総じて優秀である。音楽でも文学でも工芸などでも、名作、名曲、名品はあまた数あるなかから、個性を愛されたものだけが選出され、淘汰された結果の産物であり、時間や場所や言語体系が遠ければ遠いほど消費する価値を持つ可能性が高い。日進月歩どころか分進秒歩の世になっても、選出されたものを伝え遺そうとする原則に変化はない。生物やDNAも、もちろん人も社会により淘汰されていくし、社会も国家も淘汰されてゆく。
新たな方向が試される機運は新たな個性の集団の誕生によって生じる。こうして流行はつくられ、追随するものに順次伝達消費されながら群れの方向を示す。ちょうど魚の大群のように先頭を競う者たち、外側の者たちは常に群れの方向を示しつつ、内側、後方のものと交代しながら、さまざまな方向を試しながら、ゆっくりと我々の群れはすすんでいる。

流行に取り残されることは本能的な畏怖の対象でも、流行を追い”駄作”を消費するだけでは、新しそうなものに触れているだけでは、個性の獲得は難しい。テレビ、週刊誌、歌謡曲などの”濫造”される駄作を遠ざけ、古今東西先人の遺産である”名作”文学・音楽などに親しむ時間を増やしたほうが、結果個性を獲得しやすいことは、”名作”が伝えられてきている由縁でもある。この温故知新の旅の最後に景色や空模様などをゆっくり眺める質の高い時間にたどりつき、”人身御供”として往時往時に最先端のバグ盛PDAをとっかえひっかえしたり、夏に革ジャンを汗で湿らしたりした経験を懐かしみたいものだ。

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