韓国という国号について
紀元前1122年周の武王の弟、北京の南の固安県あたりに封じられ韓候と名乗る。次代の成王の時、韓原(現在の陝西省韓城市)に移封された。その際に韓遺民は楽浪郡あたりに移民して、朝鮮半島南部にたどり着き韓氏を名乗っていた。
三世紀になると三国志魏書東夷伝に初めて韓の国名が現れる。
馬韓は部族社会でそれぞれの部族に酋長がおり、そのうちの伯済が後の百済になった。衛氏朝鮮に追われた箕氏朝鮮は海に入り馬韓を攻め落として韓王となった。その東には秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と呼んだ。
辰韓は上記から秦韓とも書かれる、辰韓の斯蘆国が後の新羅であり、王族は馬韓人であった。
弁韓は馬韓の東、辰韓の南、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域である。その境は、辰韓と接しており、入り組んでいた。のち、金官国(駕洛国)がこの地域の盟主となり、それぞれの国家の連合をつくった。狗邪韓国もこの中の国家であり、日本府がおかれた。
韓(から)と呼ばれるのは、加羅、駕洛などで3世紀から6世紀中頃までは、倭人の活動地域となり、倭人はこの地域を韓国と呼んだ。
4世紀から高句麗が半島南部に徐々に進んで、
百済、新羅、倭と戦いながら、百済を南に追いつめた。百済新羅は倭に服属しながら抵抗を続けたが、6世紀になると百済は新羅にも圧され、高句麗と結ぶようになる。これに対して、新羅は高句麗を圧していた唐に服属するようになる。7世紀に唐が百済を滅ぼし、高句麗をも滅ぼす、大敗した倭国も号を日本と変更することになる。
新羅は唐と同盟し、高句麗、百済、倭を破ったが、唐の配下に組せず、唐の衰退もあり、半島を統一した。
10世紀に新羅は後百済により滅びる、後百済は新羅の王族の国、後高句麗の武将が立てた高麗に滅ぼされ、高麗は14世紀に高麗の武将、李成桂に簒奪され、明国により、1500年ぶりに、朝鮮と名乗るようになる。さて高麗から李氏朝鮮にかけて中国の属国であったが、日清戦争により日本により独立させられ、1500年ぶりに日本の提案で大韓帝国となのるも数年で日本に併合させられる。
日本が米国に敗戦すると米国とソ連に分割統治され、北側は朝鮮、南側は韓国と名乗るようになる英語表記は高麗由来のKoreaとなる。以来米国の属国的な立場にあるが、近年はまた中国へ接近している。
乱暴にまとめると、日本からは韓、中国からは朝鮮、満蒙からは羅と呼ばれている。
推移は
朝鮮→韓→新羅と高句羅→新羅→高麗→朝鮮→韓→日本→朝鮮(共産)と韓(国連)。
さて今後の展開であるが、北朝鮮を中心に統一した場合は高句麗、国連主導で統一した場合は後韓、ついでに明の領土を主張している国は「明民主人民共和国」でどうだろう。略して蝉、請みんとも後明とも。総称は後明韓、公民官か,ご民間か、、後民干にはならないで。
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