岩津の「鯰の歌碑」の謎




ぐるたびサイトより岩津橋
徳島市内から国道192号線を池田方面に走り、川田を過ぎたあたりで、川幅がぐっと狭まり、吉野川は「岩津の淵」を成す。
平成五年に橋が架け替えられて、現在では面影も見えなくなってきているが、近世まで南岸の山川町と北岸の阿波町を結ぶ渡し場として、また吉野川を行き来する船舶の停泊地として利用されてきた。河口から40km遡って、川幅が一気に150mほどに狭まるこの地は、古来交通の要所であり、現代ならさしづめ、トラックターミナル、サービスエリアというところである。

さてほとんど素通りしそうなこの橋の北詰の西方に艀(はしけ)の遺跡や石灯籠が確認できるが、そこに不思議な「歌碑」が立っている。阿波市観光情報(四国ネット)に説明がある。

『古代文字「鯰の歌碑」
 郷土の先哲、忠君愛国の歌人岩雲花香翁が孝明天皇(1831~1866)に拝謁後、全国遊説中記念に自作自筆の詩を彫刻させ、この地に建立しました。岩津の淵の主であるといわれる大鯰にたとえて、日頃は目立つことがなくとも一朝事あるときは社会に貢献できる人間になってほしい、と書かれています。』

『郷土の先哲!忠君愛国の歌人!幕末に天皇陛下に拝謁後に遺した!神代文字の石碑!』
このキーワード群に惹かれて、「百聞一見」と期待満点で出かけてみたが、石碑もそこに書かれている文字もなんというか風変わりで風格がない。神代文字というより、ハングル文字にみえる。帰宅してすぐに好奇心でネットに潜った。

岩雲花香(いわくもの はなか)

国学者、歌人である。17歳の時遊学の旅に出て諸国を回り、行く先々で国学者、歌人、文人らと会い、
国学を語り、和歌を交換した。
江戸で平田 篤胤に入門し、篤胤の学説である皇統無窮と尊王攘夷論の影響を強く受けその思想を
伝えて旅をした。篤胤の神代文学存在説を信奉し、研究を重ねて神代楷書の新50音図を創案。
岩雲花香の出身地、岩津(現阿波町)ある杉尾神社には自らが建立したという神代文字の歌碑がある。
また、稲田家の家臣に大きな影響を与え討幕活動の指導者を育てた。著書には、「八日の日記」
歌集「花鏡」などがある。
●参考資料/(財)とくしま地域政策研究所「吉野川事典」


阿比留文字でこう書かれているらしい。

「波の間に い出て見えなむ つぬさはふ 岩津の淵の 底の鯰は」

時代背景と思想を鑑みてこの短歌の内容を考察してみた。
現代意訳「世の中が揺れはじめて ちらほら見えたり 隠れたりしているけど いつも元じめとしてひっそりしっかりよこたわっているんだよ この淵の主の鯰のようにね」
孝明天皇に拝謁後に故郷の交通の要所に建てたのであるから、もちろん天皇家と天下国家の関係について触れた内容であり、解釈によっては「いろんなうわさはあるけど、いざと言うときにはいつものんびりしている国主天皇は しっかりとお国の底流に息づいているんだよ(勤皇家たちの倒幕へむけた動きはしっかりできつつあるんだよ)」
 この解釈だと、天皇を鯰とたとえる不敬もあるが、なにより地元の殿様は将軍の実子で幕府の軍事総裁でもあり、いろいろと問題が多く、勤皇派の歌人で神代文字研究家もあった彼の一世一代の記念として、各方面に配慮して、この体裁になったのであろう。
1862年といえば幕末、国を挙げて、勤皇派と佐幕派が喧々諤々の状況で、阿波の領主蜂須賀斉裕は先代の養子で、この年に重臣の反対を押し切り、幕府の軍事総裁に就任している。
このようなお国の状況で、交通の要所にでっかい看板で勤皇派がこんな看板を立てたらさぞ波紋をよぶだろう。阿波の支藩である淡路の稲田藩で討幕派の指導をしながら、佐幕派であった阿波の国の中心に暗号めいた歌碑を遺した彼に、ネットの片隅でこっそり反社会的な洋楽ロック歌誌を翻訳している身として一気に親しみがわいた。
平田篤胤の入門者で自ら神代文字を研究し、国に篤い慕いを懐いた歌人はやはり日本人らしく『自らの行動による波乱を忌むこころ優しい人であった』と得心することにした。かくして往復80kmの旅の疲れとハングル紛いの文字を見せられた失望はすっかり癒され、阿比留文字とハングルの類似性については、幕末の阿波の話とともに別の機会に考えてみることにした。


Awa moji stele.jpg
神代文字の一種「阿波文字」
Wikipediaより
県土木部近辺ストリートビュー(歌碑は見えない)

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