「林兼明 神に関する古語の研究」 最終章より,以下の著述を発見した。
とりあえず、そのまま書いておく。解説は後日。
日本民族が天日を仰望讃歎して東遷運動を起してより最先第一に逢着せる憧纉の瑞島は即ち筑紫の島なりき、 故れこの島をその理想によりて 「日の国」 と名づけたり。
筑紫国、 豊国、 熊曾国等は後世その「日の国」の別称又は地方的特称として追補せられたるものなり。然して「肥国」は原語のま、に正しくその遺影を伝えたるものなり。
この筑紫の四面の名の等しく 「日の国」 なる同一根源より出でしとは、 古事記に明記せる右の別名即ち白日別、豊日別、建日向日豊久士比泥別、建日別の名によりて確証せらるるものなり。
なほこの別名中「肥国を建日向日豊久士比泥別と謂ふ」とある古事記の原文に何等かの錯簡あるが如く論ずる学者あれども、そは然か論ずる学者の頭脳に錯誤あるなり。茲に 「肥国」を挙げて別に「日向国」を挙げざるは、両国共にその本は「日の国」にあり、「肥」の字は単に「日」の意を表はす為の借字たるのみなるが故なり、即ち曰向を脱落せるにあらず「日向」と「日の国」と全く同一同義同一境域なるが為なり。
抑も筑紫といひ、豊といひ、曾といふ、その始めは何れも別に地方区画を指ずの名にあらず、単に「日の国」、即ち「肥の国」の形容修飾の語たりしなり。然るに後世、 国郡制置の頃に及び、便宜上その形容修飾の語を分ちてその小区画の名に借りたるのみ。然れどもその原義の消滅泯亡せざらんが為に、懇篤にも古事記には白日別以下の別名を附して曩始の大本を顕示したるなり。
このうち「建曰向日豊久士比泥別」の名は「建日 向日 豊奇曰 根別」の義にして 「等しく天日により天日を以て国を称ヘたる中にも、この 「肥の国」 はその名の基づく根本を示国名なるぞ」と云へるなり。
かくて後ち、この「日の国」のうち東面直ちに旭日に向ふ反面を割きて「日向国」と称ヘ別け、筑紫、豊、熊曾等を次々に宣り別けたるなるベし。 但しこの日向国は「日の国」と一身同体同義なるより、時に「日の国」 即ち上古の筑紫洲の総名にも用ひられたること多かるベし、乃ち古事記神代巻の 「筑紫日向の橘の小門の阿波岐原」 ゃ 「筑紫日向髙千穂の久士布流多気」 等のH,何は
九州の総名なるベく、 またこの場合の筑紫は恰も日向の修飾語の如き用を成せり。 (筑紫は筑石磐座=神籠石に祀れる国名なる事後に述ベたり)
かくてこの筑紫に起りし「日の国」の名が大八洲の原始的総名となりしは別に怪しむに足らず、その発源の理由に基づく必然の成行きなりとす。
^3) 日本書妃景行編
「十七年春三月云々、幸児湯県遊于丹裳小野、時東望之、謂左右曰、 是国也、直向日出方故号其国曰日向也」
この一節の書紀に範りたるは全く天祐と云はむか、神助といはひか、 実に日本の大いなる幸ひなりき。 そは 「日の国=日向」の正しき原義を遙に悠遠の彼方に光り望み得るが故なり。 但し「日向」なる国名を,この時景行天皇の始めて命名し給ヘるものにはあらず、そは天皇西征の沿道、国の大名より地方の小名に至るまで、地名悉く具備して書紀に明記せられたるに独り国家発祥の大祖国なる日向のみ国名地名の未だ無かりしといふこと信ぜられざるが故なり。
ただに景行天皇の御時たるにとどまらず、既に神武天皇の御代、否更に遡りて遙に悠遠の神代の時既に「曰向」の名は是ありしなり、「日の国日向」の名は日本民族の発祥と共にあり、日本国と共に之有りしなり。
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