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”反日”に対する責任

今や日韓関係は、移民と同化の政策の修正動議として政治の舞台で利用されつつある。  民族集団に対しての自治と移民の双方の可能性への烙印評価は、つまり韓国から世界が孤立するドン引きには充分の、民族性を浮き彫りにしてしまった。韓国は日本に擦り寄ってくるだろうけど、”兄第”日本は今回は簡単にはゆるすわけには行かない。  周囲に良い影響を与えた痕跡が非常に稀な民族をして、その影響を地球に振り撒かせた隣人としての責任をとらなければなるまい。風評被害としてアジア各国におよび、グローバリゼーションを停滞させ、不景気の原因ともなっている。その痕跡が民族のアイデンティティの成立期に厳然と歴史の事実として存在し、つまりこれを放置してきた周りの国が責任をとるしかない。歴史的には、モンゴル軍閥のリハン国こと李氏朝鮮期がもっとも決定的であり、次に米軍統治の責任が重い。併合した日本は3番目くらいの責任であるが、戦後の一貫した寛容的な政策の責任を合わせると、日本が中国に責任をとらせるのが道理であろう。  ある見方では、米国はFTAを通じて属国化をすすめ、中国へのすりよりを恫喝し、最終的には子分の日本に面倒を見させようと満々なのだから、属国政府に逆らえるわけがない。「山賊の巣みたいになっても困るので面倒は見ますし、戦争介入もなんならしますよ」というのが現在の日本の顕在的な立場。ほぼ撤退のめどがついた在韓米軍の代わりの日米同盟側の直轄軍の陸戦主力は陸上自衛隊ということになるが、内戦時の後方の戒厳令行使目的以外の実戦投入の可能性は低いと思われる。 韓国軍は以前として米軍指揮下で、あるときは北朝鮮とともに対中戦を行う、後方で自衛隊の治安占領下におかれる可能性のある民に、如何に戦争の教訓を与え、どのような未来を描けるかを事前に検討しておく必要がある。  今後の具体的な政策として参考にすべき政治的な経験は、中国の朝鮮族統治と日本の在日特権、日韓併合などであろうか。日韓関係を見直す機会として、以後の人類の歴史における「移民」にたいする大きな政策の転換点の一つとして記憶されていくことだろう。  ずるくて悪いことをするのは決して遺伝子などではないはずなのだが、残念ながら心の闇を見つめ合う社会における心情を想像することはなお困難である。失敗予定のオリンピックを中心に民族の今後の運命がきまるかもしれな...

亡国に紡がれる言葉

隣国の韓国への軽薄な論調はひどい。 「近年分不相応な待遇を受け自己を見失った。」 「日本や米国に甘やかされて成長したが、かの民族はその準備ができていなかった。」 「過去を否定することで否定的な過去を持つ運命になった民族社会は急激な生活の変化と国際化を充分に咀嚼できないまま衰退への道を。」 「「中華帝国の影の存在として、尊敬できぬ主君を抱え続け、民を虐げ、不幸の歴史をつないできた民族社会は独自の価値観を創造できず自壊し続ける。」 etc.  しかしこのような現実認識を論じているだけでは、問題は解決しない。もちろん自分たち自身の問題であるし、国際社会においては隣国の問題である以上、もっと責任が伴うのは自明である。幸せは力であり、民を幸せにしない国家は滅びる。不幸な民を負債と捉える国家は栄える。韓国の崩壊は北朝鮮の役割を変化させている、最近いつも不満顔の韓国に対して朝鮮金王朝の民は意外と幸せそうに映る。  幸福を分かち合い、さらに子孫の幸福を形成していこうとする社会は不幸な歴史を消すだけではなく、おそらく集団で幸福を手に入れた体験が必要なのであろう。これを文化人類学史的に証明する貴重な実例として、国家やメディアによる情報統制、言語政策、文化規制などに潜在するリスクを露呈するものであり、進行中のすべての半島の事例は将来への警告であり、これはたいへんな教訓といえる。民族が自らの力で指導体制を形成し、確率する事に価値があるし、手助けも余計なお世話になることもある。 日本においても、全面的な対外戦での大敗というは唐との白村江の戦いと米との太平洋戦争の二回あるが、白村江の戦い後に成立した漢文の日本書紀に対して、改ざんされてしまっていても併挙できる価値のある古事記を残し、万世一系の真実の歴史にせまる機会を持ち続けた日本なら、今話題のWGIPくらいでは、それほど大きな傷とはならなかったに違いない。傷は新しく、世界は一気に広がり、民族の道に戻る行程はなお遠くみえるが、膨大な民族の歴史経験は自分たちの本道にもどる手助けをしてくれる。現実には、今の日本は世界中の民から愛され、リーダーとして期待されている状況になっても敗戦の不名誉を忘れることができないままではある。敗戦を素直に認めることであらたな関係を築いていくことができるが、ナショナリズムの勃興はともすると、敗戦をみ...

絶滅の教訓

絶賛公開中の「ジェラシック・ワールド」やはり良作だそうだ。  一作目は小説から映画館で二、三作目のジェラシック・パークは、ホームシアターDVDで見た。 小説の世界と映画の世界は別の感慨があるが、よく出来たアイディアとCG映像の素晴らしさで、幼いころから憧れた「実在した怪獣」がありありと動く姿を見せてくれた。作品のテーマがより整理され、わかりやすくなって、この作品ばっかりは映画として素晴らしいと思えた。新作はさらにCGも恐竜の生物像も進化しており、感情移入さえできる作りになっているようだ。  ここで描かれた恐竜の圧倒的な狩猟能力を原生生物と比較すると「恐竜の絶滅」は、『哺乳類に先んじて進化した生物が、激しい生存競争の中でさらに進化した結果自滅した』という説を信じたくなる。これは繁殖力より、殺傷力を優先して進化した結果として、大型の陸上、水中の種は絶滅してしまい、極端に臆病iで穴の中や寒いところでしか生きられなかった哺乳類と恐竜の仲間では空に逃げた小型の種だけが、生き残り原生動物の祖先となった。つまり狩猟本能を磨きあった結果、種としてグループごと絶滅してしまったと。そして小型の空種は鳥になり、哺乳類のように群れを作り、幼生を育成することで絶滅から生き延びた。国家や社会そのものの教訓として、恐竜もまた人類の歴史の一部として、核抑止力論者などは大いに参考にすべきかと。。  現実には火山による気候変動がきっかけであったことが証明されているが、同様の気候変動は現在我々人類の活動によって引き起こされており、覇者の交代は必然的に迫っているかのようだ。 こちらは、恐竜とは違う自滅とでも表現できそうな流れである。この流れを止める必要はあっても、個々であせる必要はない。結局多くの子孫が安心して暮らせる世界を残そうとする人々が主流になるはずだ。  全体からみれば恵まれた人たちだけが、幸せな人々だけが、この絶滅問題を自分の問題と捉えることに至っている。私でさえその一員であっても、あいかわらず、だらしなくここでこんな垂れ流しをしている。  世間や国外をみればさらに、当たり前に殆どの人達がまず自分のことを常に第一義として行動することから逃れられない状況にいる。そしてこの状況で社会は支えあっているが、自分の人生のプライドかけて、積極的になにかをしようとすれば、結局徐々に所属する...

ファッショナブルブーツと名作の由縁

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「徳島の高校生男子が真夏に質実剛健なワークブーツをはいて足取り重そうに仲間でチャリ通学」しているのをみかけ、ついの失笑をおさえるのに苦心する。この際に自分に言い聞かせるのは「若さはバカさ」「通学遍路」とかでは足りず、「ファッショナブルとはリーズナブルの対極」でやっと一息つける。 同じように、ランボルギーニをローダウン、インチアップしてブーストアップでフルエアロで夏の雨の夜にスーパー林道を走っている人にであったら、アッパレ応援したくなるだろう。 バ 若者は元気にいい気分のままでいてほしい、のでワークブーツ履きの高校生にはあまり読んでほしくない。賢いやつばかりじゃ世間はつまらない。 東京人が足元に気を使うのは、必要性から、理由(Reason)があるからだ。15分くらいは毎日早足で歩くし、満員電車で足を踏まれたりする。そしてとにかく人同士「足元を見あう」ので必然と靴に見栄を張る。「移動は車が基本」の田舎では足元を見せる機会も少なくなり、実用性も求められず足元はゆるくなる。 高校生は学校に着けば、靴を履き替える、教室では上履きですごし、運動靴で体育や部活動を行い、帰宅時に再度靴を履くので、履き替えは便利なほうがよい。男性は若い方がそして夏の有酸素運動は特に発汗しやすい。自転車用の靴となればペダル回転慣性の最外側でもあるし、自力推進なので靴に限らず、グラム単位で軽いほうが有利だし、できるだけ外形がコンパクトなほうがチェーンとかに干渉せず漕ぎやすい。 ワークブーツは、頑丈で重量があるし、くるぶしを覆う形で紐を結ぶのでもちろん履きにくく脱ぎにくい。”流行に左右されない”流行のアンティークかつスタンダードな皮革のブーツは大きく分厚く、保温防水防湿効果も抜群だ。 この痛快なほどの究極のアンマッチ、ちぐはぐさこそが”ファッショナブル”なのであろうし、たぶんに反社会的な主張をこめた不良スタイルでもあるのだろう。想像するに難くないその不便で不利で不快の苦行を平然とうけとめ意地を貫くことも男の道で、目立とうとすることは、女子にモテる最初の最少条件だ。常人は、夏の徳島ではずっとビーチサンダルが快適だが、大人は運転もするので穴あきクロックスが便利、スクーターにもクロックスが快適で、できればソックスも履きたくはない。 「ワークブーツ好き」なのは、「戦車好...

義(よし)をなしとす。

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「他力には無義を義とす」 親鸞上人のお言葉を現代口語にて。 建長七歳乙卯十月三日                     愚禿親鸞八十三歳これを書く。 いよいよ、あの世に行くというときに、自力と他力はどのように働くのですかという質問に応えて。     三毒(貪瞋痴)煩悩 まず自力ということは、 それぞれの縁にしたがって、 仏の名号を称え、 あるいは念仏以外の善を修めて、 自身をたのみとし、 自らのはからいの心で、 身・口・意の*三業の乱れをとりつくろい、 立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。 他力というのは阿弥陀仏の四十八願の中で、 選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。 阿弥陀如来像 それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、 「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」 と、 法然上人は仰せになりました。 「義」 というのは、 はからうという言葉です。 行者のはからいは自力ですから、 「義」 というのです。 他力とは、 本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、 まったく 「義」 はないというのです。 さて「義(よし)を無しとせよ」は本年の法事で導師からの説法のテーマで「最期には阿弥陀仏を信じ、その名を唱えよ。」の意である。既に涅槃に去った故人を身近に感じ、まだ今生にいる人を既に去ったかのように感じるのも、人の心の乱れであり、計らい(義)であろうか。 750年前からでも、先人はありがたくも仏法をひろく深く息づかせ、救いの手を差し出してくれている。見えぬ未来に生きるものの先達の一端として、ありがたきお言葉を伝え紡いでいくことが、お悦びをもたらす返信にならんことを願って。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 平成二十七年乙未二月二十日 愚鈍捩髭毒舌阿波勧進烏五十余歳これを授かる。 親鸞上人 親鸞聖人御消息 より

講じられた皇位と護国論

平成27年 歌会始の儀 御製 御題 「本」 「夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ」 浅学野人の身、僭越至極ながら忖度申し上げる不敬を冒しても、この度の御製には驚きを禁じえず、臣民の末端として畏れ多くも御意を斟酌申し上げることが忠の道と信じ、畏しこみつつ上梓させていただきます。 皇后陛下 御歌「来し方に本とふ文の林ありてその下陰に幾度いこひし」  これまでたどってきた人生の道々に 本という文の林がありまして そのおかげでなんども憩いのときをもつことができました。本は文を集めた林であり、これを読んで身についた知識にすくわれたり、素敵な時間をすごすことができました。教訓含みの御歌「来し方」は悠仁親王のこととも、本物である文仁のおかげでなんども救われる思いをしてますよ。天皇陛下をおささえあそばしある皇后陛下のお見事なご連歌です。 皇太子殿下 「山あひの紅葉深まる学び舎に本読み聞かす声はさやけし」美しい風景に美しい家族の姿が浮かびます。 皇太子妃殿下 「恩師より贈られし本ひもとけば若き学びの日々のなつかし」 若いころに触れた青春時代に思いをはせ、単調な追憶で現状への不満を訴えられておられるようです。言葉の順番が直線的で聞き手の憶測を許さず、内容もお立場としてはご配慮に欠けているようで心配です。 秋篠宮殿下 「年久しく風月の移ろひ見続けし一本の巨樹に思ひ巡らす」 自らも巨樹の前に立ち運命と向き合い皇統と天皇陛下を案じさしあげている真摯な姿勢を感じさせるお見事なお手前です。 秋篠宮妃紀子殿下 「日系の若人かたりぬ日本へのあつき思ひと移民の暮らし」 海外公務での思わぬ出会いの場面の感動のご様子がありありと浮かんできます。妃殿下の愛国の情も伝わってきて深い感動を誘います。「あつき思ひ」の「日系の若人」親王殿下のお姿を偲ばせます。 ~ネット拾い読み~ 皇太子殿下 ”天真爛漫”であらせられるのか、お立場を失念された軽言が目立つようだ。 「“テファニー”を買うごとき ブランド好きの女性は困る」 「中尾の家は地震になったら潰れるネ。ぼくの所は鉄筋だからだいじょうぶだよネ」 「それまでの、ま、雅子のキャリアや、ま、そのことに基づいた、ま、雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」 お印である「梓」あずさは、神事に使われる梓弓の材で日本ではミズメ、サクラ材とし...

煙る石炭と日本民国

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春が来ると日本人は、過度なスギ植林公害+排気ガスなどの大気汚染公害+食品添加物に因む体内アレルゲン異常の複合公害汚染「スギ花粉症」に悩まされる。幸い徳島では、比較的原生林多く、渋滞・排気ガス少なく、食品添加物少ない海山の幸に恵まれ、困っている人は少ないようだ。 また花粉症より以前から「黄砂」は暖かい春風とともに、凍てついた冬を融かす「季節の便り」として、心浮かれさせる風物詩であった。黄色い砂塵に「大いなる大地」や「黄河」への憧憬や地球のスケールを感じたものだった。ところが近年、この「黄砂」とともに、より細かい公害微粒子が徳島にも届けられるようになると、春ごとにに大陸への憧憬どころか不安を抱かざるを得なくなってきた。 この「PM2.5」は主に急速な経済発展途上を遂げた中国で石炭火力発電、家庭での石炭燃焼暖房、ディーゼル排気ガスなどの原因で発生する。石炭は石油、天然ガスなどより埋蔵量が圧倒的に多く、埋蔵分布が一部の地域に偏っておらず、世界中に平均的に分布していることが特徴で中国でもわが国の協力を経て国産化している。樹木の遺体が地圧や地熱を受けて段階的に石炭化していき経年変化で品質向上し炭素純度が高まる、ピート=泥炭→褐炭→歴青炭→無煙炭となり、最終的に炭素純度90%以上となる。燃焼時の煤煙の問題から、一般に利用されているのは瀝青炭まであるが、中国では、安い褐炭が家庭用練炭や豆炭だけではなく、鉱山などの発電用にも使われており事態を深刻化させている。わが国では、採掘コストとの絡みでほとんど採掘を行っていないが、徳島・阿南の「橘湾火力発電所」などで利用している石炭は徳島県の輸入額の半分を占めるほど発電での利用は未だ盛んだったりする。 阿南の発電所 しかし、遠く北京では火力発電所の煤煙で「北京咳」に苦しめられる市民がいるが、阿南では煤煙どころか梅園での梅花のほころびに心を浮かれさせているほど、状況が異なる。 明谷梅林 発電規模と「海」に開かれた立地、高効率低公害技術や法の整備運用に大きな差がある中国でも順次古い火力発電所を切り替えていってるが、一方の阿南では余裕というわけでないが、伊方原発の停止を受けて、古い火力発電所を再稼動していたりする。 中国の火力発電所  さらに黄砂とともに1980年まで行われていたゴビ砂漠の核実験により...

日本一の卜ヨ夕商法

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1998  Progrès 誰もが認め尊敬をあつめる業界の権威に敬意をはらいデザインを丸パクッタ上でちょっと自分達のよさを加えて出してみたりして、名前を「先進的」なんていってるうちは「かわいげあるよね」とかいってもらってたのよ。でもやっぱり、基本がわかってないから、海外ではまったく評価されず、悔しい思いをしたけど、ずいぶん勉強になったんだ。 1993 W202 2003 Wish 2000 Stream 国内の技術屋集団の追い上げの激しい車には、『全部ぱくれ』と無茶振り役員命令出して、忠実にほぼできて勉強になったんだけど、低床設計だけはまねできなくて悔しかったぁ。でもできた車に「意志」なんて恥ずかしい名前をつけたら、オリジナルよりうれちゃった。よっ!うちの営業は日本一!やつらには「ポリシーは販売台数!」って言い返したもんだ。 海外でダウンサイジング+エコブームが起きると配下の軽自動車屋の力作を騙し取って、いろいろと手を返し品を変えて売り切ったね。同時に商売下手な軽自動車屋のほうは着々子会社化したから、新規の普通車はなくなっちゃったけど、ギブ&テイクだからね。         1998ダイハツストーリア vs 2005卜ヨ夕アイゴー 全長x全幅x全高(mm) 3660×1600×1450 vs 3405×1615×1465 サスペンション 前:マクファーソンストラット後:トーションビーム 排気量(cc)        989            996 ボア×ストローク(mm)72.0×81.0      71.0×83.9 ボアピッチ        78mm           78mm 最高出力(馬力)  60             71 エンジン方式        水冷直列3気筒DOHC12バルブ エンジン型式      EJ-DE          KR-DE※1 駆動方式        FF             FF 乗車定員        5名            5名 燃費          22km/L           21km/L ホイールベース    2,320mm         2,340mm 変速機       5速M...

キツネの「粉もん」

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徳島には、関西文化圏らしく、小麦粉を焼いて食わせる零細形態「粉もの屋」(こなもんや)がたくさんある。ちなみに高校生男子くらいになると、「セルフうどん」にグレードアップ?する。自宅においても、粉ものを家族で食べる日は「主婦の安息日」として認知されている。どちらにせよ、デイリーに小麦粉とカツオブシを食うわけだから、自宅があればそれ以上のコストパフォーマンスは望みにくいが、時間がなかったり、お母さんがいなかったりの子供は(一部のおっさんも含めて)、近所のおばちゃんがまとめて面倒をみる。これが「粉もん屋」の発祥である。だから「ここはASEANか?」というくらい安い。300円ほどで腹いっぱいになる。 全国チェーンもあるが、「お好み焼き」もいわゆるジャンクフードで、ドライブインとか学校近くの簡易なお店で、たこ焼きや焼きそばなどと一緒に、ドライバーや小中高生の子供を相手に、小麦粉、キャベツ、肉、鉄板と少々の調味料などがあれば料理が可能なので、小さいキッチンで少人数で少ない元資ではじめられる。つまり安い材料、安い設備、安い人件費、安い家賃なので安くおなかを満たせる。「おこづかい」をターゲットに十分に経営ができる。 ちなみに「粉もん屋」は夜は「やってない」し、駐車場もない、ベンチがあればいいほうで、エアコンは扇風機、でかい看板も、ノボリの類も、もちろんWeb広告も、クーポンもない、店員のへんな挨拶もない。お客様センターもないし、スーパーバイザーもいない、流通センターも営業も総務も経理も税務も庶務もIR窓口も新規事業部もない、テレビ広告なんてあるわけない。だって所詮「粉もん」なのだから必要ない。  不要な付加価値にだまされてるのは大人だけなのだ。いや正確に言うとそんなものにだまされるように子供達は都合のよい価値観をしこまれていく。全国チェーンのお好み焼き屋にならぶ黒いミニバンはこの宗教の信者の集会だ。小麦粉とカツオブシを食うのに、なぜ自分達よりいい暮らしをしている東京のテレビ屋とか証券会社に払うみかじめ料込みで払おうとするのか?税金ではないのに? この深層はやはり目の前の「人」にたいする不信があるとおもう。テレビの言うことと、近所のおばちゃんのどっちを信用するか、どっちが信用できるかという選択になるし、その選択が後世に残す社会を決定付ける。  さて四国...

ルーディ と ヤンキー 

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ヤンキーというのは、日本では不良少年とかチンピラの意味である。大阪のアメリカ村あたりでたむろっていた不良少年達への尊称から始まっている。上の曲でわれらのストラマーさんが喧嘩をうっているのは、アメリカの白人やその社会のことである。その一説はこうだ。 Yankee dollar talk To the dictators of the world In fact its giving orders An they cant afford to miss a word ”ヤンキーはドルに物言わせて世界の独裁者を牛耳る。” とさすが強者には徹底的に手厳しい。 いつのまにか、この”ヤンキー”は日本の主に路上で珍妙な虚勢を見せてくれる男女に向けて使われるようになった、しかし一般に了見が狭く社会的には弱者に分類される。不良少年は成長しても”チョイ悪親父”となり”マイルドヤンキー”となる。 彼らはニーチェの語る”末人”像にも少しかぶる。人生の目的を見失ってる彼らを動かすのは、社会そのものや才能あるものへのねたみや嫉みである。このルサンチマンは、特定のものへの「信仰」によってゴマかされ、自分の欲望を直視する機会を失う、さらに自分というものがなく、「群れ」をつくることで、防御をかため、自分を磨く機会をも失い、個性も失う。安直な論理にとびつき、自分はお前より上等だと言い張る。こんな人間「末人」が世の中に虫のようにあふれかえるとニーチェは言った。だがそれ以外の生き方は”狂うこと”以外に残されていないと実際にかれは狂ってみせた。 狂い踊る阿波おどり文化はニーチェの求めた応えを提供している。ルサンチマン大国と成り果てた虫国や、妬みや嫉みだけでなく「恨みで立国」するというニーチェにも予想できない末人エリート国につける薬は阿波おどり文化のなかにあるかもしれない。 ルーディというのは、RudeBoyの略で、無礼で下品で荒削りな少年という意味である。ジャマイカの不良少年がスカ、レゲエ音楽ともにイギリスに伝播して使われるようになった。 The Specialsは Dandy Livingstone のヒット曲を借りてこう歌う。 ♪ふざけんなもめ事を起こすのはやめろよ! いい加減に足を洗えよ! 自分の将来を...

腐敗の消費者市場

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「ソニータイマー」という言葉がある。これは電気製品などが保証期間を過ぎるころに動作を停止したり、破損することである。メーカーとしては壊れてしまったほうが、新しい商品が売れるのでそこを狙って耐久品質を設計製造することが正しいという人もいる。メーカーにとっての不要な耐久性は削られ、ブランド価値を維持するための広告宣伝費に廻される。顧客は広告を追加購入するために、耐久性の低い商品を選択している有様である。街の電器屋さんが姿を消したので、こうなったともいえる。 一方で「まだ残っている」街の自動車屋のオイル交換時期の目安としての走行距離は、まちまちである。例を挙げると、 ガソリンスタンドで3,000km~5,000km 自動車ディーラーで5,000km~10,000km 自動車メーカーは10,000km~20,000km オイルメーカーは20,000km~30,000km と業者によって、一桁も差がある。ユーザーの情報識度(リテラシー)が低いところに下層の業者ほどつけ込みやすい。日本においては既に自動車は機能、性能に大差がなく、一般に「自動車好き」と呼ばれる人ほど、「今度のは差があります」とするメーカー側の情報に踊らされやすい情報識度の低い人で「好きなんだから」「他人との差を大事するため」「愛車に特別な扱い」をしてしまう。自動車自体に興味のない人は、専門家であるはずの業者の言うことを信じてしまう。かくして「オイル交換3,000km」なんて業者への過剰サービスが現在まで残ってしまう。 メーカーのターゲットとしての「マイルドヤンキー」を生み出し、ユーザーのリテラシーを低下させてる原因は、自動車に興味がある人ほど自動車メーカーの情報を鵜呑みにせざるをえないちょうちん情報に純化していくメディア状況にもある。雑誌、テレビはほとんどの場合、提供者(スポンサー)の広告の場として、彼らの利に反する情報を伝えない。評論家も「ちょうちん持ち」と化し、生計の手段を雑誌、出版、TV出演などに握られて、批判も許されない。もちろんネット上でも大資本への不利な情報は出回りにくいし、削除され、検索から除外される。国はメーカーと相談しながら、道路を作り続け、車検制度、免許制度を、既得権益として維持し続け、そこへの疑問すら反社会的とみなされる。 「安くてよいもの」をつくってい...

過去と現在のReal love

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このRealLoveはJohnLennonの作品で、 Beatles最後のシングルでもある、 解散後Johnはさらに歌詞を推敲した。 all the little girls and boys playing with their little toys そのちっぽけなおもちゃで遊んでる お坊ちゃん、お嬢ちゃん、みんなはね。 all they really needed from you is maybe some love そうほんとうに君から必要としていることはね。 たぶん、ほんのすこしの愛なんじゃないかな。 all the little boys and girls living in this crazy world この狂った世界に生きる お坊ちゃん、お嬢ちゃん、みんなはね。 all they really needed from you is maybe some love そうほんとうに君から必要としていることはね。 たぶん、なんらかの愛なんだ。 why must it be alone? why must it be alone? なんでそれっきりなんだ? なんでひとりっきりなんだ? it's real love yes,it's real それが本当の愛なんだ そうそれが本物なんだ i don't expect you to understand the kingdom of heaven is in your hand わかってもらえるなんて思ってないさ 天国は君の手の中にあるなんて i don't expect you to awake from your dreams too late for crying now it seems 君が夢から覚めてほしいなんて思わないよ ただもう泣くにもとっくに手遅れらしいね all the little plans and schemes nothing but a bunch of dreams 全部ね、ちっぽけな計画とか仕組とか 無になったけど夢の花束だったね al...

古事記とバレンタインとクジラ

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「バレンタインデー」は特別な日である。 商業主義に踊らされ、由来不明であろうが、やはり特別な日であることには間違いない。これを素直に否定できる人はいないだろう。 「女性が男性に告白する」ということは、われわれの大和民族の祖イザナギ・イザナミの二神が国産みの課程で会得した最初の禁忌である。それをこの日だけは「よい」としたのは、禁忌破りの「ハレ」の日であると宣言したに近い。 このような大胆なことをしたにもかかわらず、根拠は大いに薄弱で、ローマ社会での男女のお見合いの日らしいが、はっきりしない。聖バレンタインという殉教聖人も特定が難しい。なにより、15世紀まではてんかん患者の救いの神であり、その後英国ポストカード業者から、日本のチョコレート業者を経て、今の状況に至る。 実質聖バレンタインという神は、大和撫子のために20世紀に顕現した最新の神ととらえるのが正解である。ご利益は若い権現らしく目覚ましく、扱いを間違えると祟りも怖い日本の神様になったのである。 イザナミ・イザナギの話に戻るが、乙女のイザナミは禁忌を破ったわけではない、禁忌はまだなかった、しかし失敗に終わる。正確に書くと「女性から告白することで得られる子は不具で流れされてしまう」のだ。そこで教訓をえた二神はもう一度今度はイザナギから声をかけなおし、めでたく国産みに成功する。これが「ホワイトデー」の起源である。このように民族意識の底流にいた護国の神が、西洋の侵略に対抗して、別のお菓子業者を導いて創った仕組みは当然抵抗なく喜びをもって受け入れられたが、調子に乗った果樹屋が狙った4月14日のオレンジデーは当然ながら受け入れられていない。 さて、国産みの最初に生まれた子供は蛭子(恵比寿、夷、戎)と呼ば れ、海に流され、海神となり、クジラとなる。クジラは人類の(出来損ないの)兄であり、バレンタインデーはクジラを大量に生み出しているとすれば、昨日のNZ大量座礁は物言えぬ兄からの命がけのメッセージかもしれないと思ってしまうのだった。改めて合掌、鉦鐘チーン 南無南無。