過去の教訓を掘り起こす:群馬から見据える未来への個性と、銅鐸が語る古代の知

 


過去の教訓を掘り起こす:群馬から見据える未来への個性と、銅鐸が語る古代の知

私たちは今、高速道路網や鉄道で形成された地理感覚の中で生きています。しかし、かつて列島が船の交通網で結ばれ、川が文明の動脈だった時代を想像するのは容易ではありません。この現代の価値観の「フィルター」を通して過去を眺めると、理解できないものは「迷信」と断じられ、あるいは「祭器」という曖昧な言葉で片付けられがちです。しかし、新たな過去世界の社会観を仮想し、歴史的な事物を再度観察していけば、そこに私たちが忘れかけている歴史の教訓が秘められているはずです。

私たちは今、画一的な価値観の限界に直面し、アインシュタインが指摘した「それを創り出した時と同じ考え方では解決できない」問題を抱えています。この課題に対し、アシモフが描いたような恣意的な文明維持ではなく、多様な価値観を育み、個人の独創性が「どのように踊るか」が人生のテーマとなるような社会への転換が求められています。その鍵は、かつて置き去りにされた地方文化を掘り起こし、感覚の復活を促すことにあるでしょう。群馬県の史蹟、そして全国に点在する銅鐸が、そのための重要なヒントを与えてくれます。


群馬県:過去の価値観が息づく地

群馬県は、かつて「車評(クルマノコオリ)」と呼ばれ、車持氏の拠点であったとされます。これは、この地が早くから交通や移動、あるいは「車」に関わる技術と深い関わりを持っていたことを示唆します。広大な関東平野の奥座敷であり、利根川の上流という地理的特性は、過去から現在まで群馬の性格に大きな影響を与えてきました。

  1. 遊牧文化の痕跡と「巨大な馬の埴輪」 群馬には、北海道や阿蘇のようななだらかな土地が広がり、本州随一の遊牧に適した環境でした。そこに残る巨大な馬の埴輪や馬具は、大和政権による東征以前に、大陸渡来の遊牧文化が存在した可能性を示唆します。これは、日本列島が単一の稲作農耕文化だけで発展したわけではなく、多様な生活様式や技術が共存していた証拠です。現在の視点からすれば「農耕国家」のイメージが強い日本ですが、こうした遺物はその常識を揺るがします。

  2. 「蛇行状鉄器」の真の意味 現在の公的な解釈では「旗竿を差す金具」とされる蛇行状鉄器。しかし、「馬に旗をつけるためだけにこんな複雑な形状の鉄器を作るものだろうか?」という疑問は、まさに私たちが現在の価値観で過去の事物を評価しようとする際の「困難」を表しています。これを単純な祭器や装飾品と断じるのではなく、その形状が持つ機能性、例えば、複雑な機械装置の一部としてのカムや、水力・畜力を用いた動力伝達の技術といった、現代の工学知から再考察することで、当時の人々の技術力や世界観が見えてくるかもしれません。もしこれが高度な機械の一部だとすれば、それは「文明の基盤技術」に対する私たちの認識を大きく変えることになります。

  3. 「石棒」と未解明の技術 「男根を模した」という解釈で祭祀対象とされている石棒もまた、現在の価値観で断じられた典型例です。しかし、「車輪の心棒、芯棒に使われたものがありそう。馬車など道を転がす車輪に限らず、水車、ろくろなど用途はある」という指摘は、この「投げやりな名前」の遺物に潜む実用的な機能性の可能性を示唆します。ミシャグチ信仰の「意味不明な祭器信仰」としての研究が止まっているのは、まさに権威主義的な歴史研究の限界を表しており、こうした遺物を当時の生活や技術の文脈で再評価する姿勢が求められます。

  4. 「カム」としての「装身具、祭具」 「装身具、祭具」とされている遺物が「軸があれば歯車があり、カムが出てくるのは必然」という視点で見直されることは、まさに「感覚の復活」に他なりません。当時の人々が、単なる装飾や信仰の対象としてだけでなく、実用的な機械の部品として、あるいはその原理を理解し、象徴的に表現したものとして、これらの遺物を創造した可能性を示唆します。

  5. 真田氏の鉄兜:地方に残る技術の精髄 「圧倒的な機能性に山奥の田舎の雰囲気はない」と評される真田氏の鉄兜。これは、「天才がなし得たのか、それとも征討された車と川舟文化の勢力が山奥にその伝統を残し、戦国の世に再評価、出現したものか」という問いを投げかけます。地方にこそ、中央の支配から逃れて、独自の技術や文化が温存され、時代が下って再評価されるという歴史の教訓が隠されている可能性があります。

  6. 「ユダヤ式山高帽の埴輪」と多様なルーツ この埴輪は、「いったいどれだけの難民がこの列島に希望を繋いできたのだろうか」という問いと共に、日本列島が単一民族国家ではなく、古くから多様なルーツを持つ人々を受け入れ、文化を吸収してきた多層的な歴史を示唆します。これは、アインシュタインが「神が日本を残してくれた」と語った日本の受容性と多様性の根源を考える上で、非常に重要な視点です。


銅鐸:楽器ではない、古代水田文明の高度なテクノロジー

そして、最も私たちの固定観念を揺るがす可能性を秘めているのが、各地で出土する銅鐸です。現在、博物館などでは「古代の楽器」として展示されていますが、その解釈は、現代の私たちが持つ「祭祀=非実用」という短絡的な価値観に基づいている可能性が高いでしょう。私は、銅鐸こそが**水田耕作に不可欠な「暦と水位を司る精巧な道具」**であったと論じます。

  • 機能性から見た銅鐸の再評価:複数の線が語る意味

    • 季節と暦の計測:文様と「複数の線」が示す天文知識 多くの銅鐸には、渦巻き文様、幾何学文様、あるいは鳥や魚、人間、動植物などの写実的な絵が描かれています。これらは単なる装飾ではなく、太陽や月の運行、星の配置、あるいは季節ごとの農作業(田植え、稲刈りなど)を示す象徴的な「符号」であったと考えられます。 特に注目すべきは、銅鐸に刻まれた複数の水平線や垂直線、あるいは斜線です。これらは、特定の天文現象や季節の変わり目、あるいはそれに伴う農作業の時期を示す目盛りや指標であった可能性が高いでしょう。例えば、夏至や冬至の太陽の影の長さの変化、特定の星の出没位置、あるいは月の満ち欠けのサイクルを示す「古代のカレンダー」としての役割を担っていたのかもしれません。正確な暦を知ることは、米作りの成否を分ける死活問題でした。銅鐸の文様と線は、農耕社会に不可欠な季節や暦を可視化し、共有するための高度な情報伝達システムだったのではないでしょうか。
    • 水位の計測と管理:「複数の線」が示す水位段階 銅鐸の独特な中空の筒状の形状と、その表面や内部に刻まれた複数の線は、水位計としての極めて実用的な機能を示唆しています。 例えば、水田の近くや、ため池、あるいは河川の氾濫原の境界に垂直に設置され、それぞれの線が特定の水位を示す「水深計の目盛り」として機能していた可能性があります。水の満ち引き、雨季の増水、乾季の渇水といった水位変動を、視覚的に正確に把握し、共同体の人々が水管理の意思決定を行うための基準となっていたのでしょう。特定の線に水面が到達した際に、水門の開閉や田への水の導入・排出を行うといった、具体的な指示を与えていたとすれば、それは現代のスマート農業における水位センサーの原型とも言えます。
    • 共鳴と遠隔監視:振動による水位変動の感知 銅鐸が青銅製であることは、わずかな振動や水圧の変化を増幅させる「共鳴器」としての機能を持っていた可能性も排除できません。水面下に設置されたり、特定の水の流れの中に置かれることで、水位の微細な変化を振動として捉え、その情報を何らかの形で共有していた、あるいは内部の機構が作動する起点となっていたとすれば、それは現代のセンシング技術にも通じる古代の高度な知と言えるでしょう。
  • 「楽器」という誤分類への論理的説明 なぜこのような高度な機能を持つ道具が「楽器」として誤分類されてきたのでしょうか。これは、まさに「現在の価値観で図ろうとして、困難なものを迷信と断じて、祭器扱いにしてるもの」の典型例です。

    1. 実用性の見落とし: 現代の考古学は、科学技術の発展とともに、過去の遺物を「機能性」よりも「精神性」や「儀式性」に結びつける傾向が強いです。古代の人が、現代人よりもはるかに自然環境と密接に結びつき、その営みが実用的な知識に基づいていたという視点が欠けている可能性があります。
    2. 音の発生:副次的な機能の強調 銅鐸を吊るし、中にある舌(ぜつ)で鳴らせば音が鳴ることは事実です。しかし、これが主目的ではなく、例えば水位が一定のレベルに達した時に、水流や風、あるいは内部機構の作動によって音が鳴り、それを合図として農民たちが動いた、といった実用的な合図としての機能が本質だったかもしれません。その「音」が、後に祭祀的な意味合いを帯びたとしても、それは副次的な結果です。
    3. 既成概念と権威主義: 一度「楽器」という説が定着すると、それに疑義を唱えることは、これまでの研究成果を否定することになるため、学術界の権威主義的な傾向の中で、深く掘り下げた機能性への考察がされにくくなります。特に、複雑な文様や線が単なる装飾と見なされてしまうのは、その機能性への想像力の欠如に他なりません。

未来への提言:地方文化と個性の掘り起こし

「近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。その驚異的発展には他の国と違ったなにものかがなくてはならない。」というアインシュタインの言葉は、その「なにものか」が、まさに西洋的な合理性や効率性だけではない、日本独自の価値観と歴史的連続性にあることを示唆していました。しかし、その後の日本の発展は、皮肉にも「先進国として途上国並みの一極集中ぶり」を生み出し、**「豊かな国での逆ベクトルの行方」**を模索する段階にあります。

「コロナショックにより、都会の若者が地方を志向するようになり、テレビがその存在価値を減じる中、情報網は張り巡らされ、地方の欠点は現金収入が少ないという点だけになってきてます。」という現状は、この価値観転換の大きなチャンスです。人々が「人が多すぎて不便な都会生活」から脱却し、地方の豊かな自然、独自の文化、そして未解明の歴史に目を向けることで、**「感覚の復活」と「独創性の発揮」**が促されます。

「産業構造を食物連鎖に例えると、農業という生産業は植物になる」という視点も重要です。これまで「発展の余地の少なさ」から投資が後回しにされてきた農業は、「人材不足」という危機に直面していますが、地方回帰の動きは、この基盤産業に新たな活力を与えます。地方に根差した生産、そしてそれを加工し、新たな価値を生み出す営みは、単なる経済活動を超え、失われた「生きる」感覚を取り戻すことにつながります。

大都会の解体と地方への回帰は、単なる人口分散ではありません。それは、一極集中によって引き起こされた社会問題(環境負荷、格差、精神的空虚さ、多様性の喪失)を解消へ向かわせ、人間らしいスケールでの多様な価値観が花開く土壌を再構築するものです。アインシュタインが未来の盟主として日本に期待したように、武力や金の力ではなく、歴史の深みと精神的な豊かさが新たな価値となる時代において、地方に眠る文化や歴史を掘り起こし、それを現代の課題解決に活かしていく個性こそが、今の時代に最も必要なものです。群馬県の史蹟、そして銅鐸に秘められた古代の知は、まさにその未来への道筋を示していると言えるでしょう。

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