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有明海の歴史

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大陸から海を渡ってきたわれわれの祖先がどうであれ、穏やかな内海沿いで発展してきたことは道理に叶うとおもいます。 瀬戸内海を睨む難波大阪の地は最近まで一貫して日本史の中心であります。(京都、奈良は川を経由してこの地に出れるという位置です。) しかし内海としては規模は小さいけれど文化の伝播はより早かったと思われる、有明海を囲む勢力圏に対して言及されることが少ないのを、本当に不思議に思ってました。 筑紫国が筑前、筑後になった際に、陸地が広がってきていた筑後川下流域を含めて、肥国が肥前、肥後になったといいますが、そもそもでいうと肥国は有明海を中心とした勢力の呼称ではないでしょうかね。 そうすると今度は日向が浮いてきてしまいますが、日向はこの時点では古事記の四面でいうところの肥国ではなく、熊襲国であったのではないでしょうかね。位置的にも、地勢的にもその方がしっくりきます。 肥後一の宮である阿蘇神社の伝承、阿蘇から高千穂へ抜けるルートにある草部吉見神社(弊立神宮に隠された下がり宮)の伝承などを合わせて考えると、神武東征の前に肥国と熊襲国の主権争いがあり、勝利したかまたは敗れて逃亡した神武が東征を成し遂げた後に、日向国を設置したのではないでしょうか。