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有明海の歴史

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大陸から海を渡ってきたわれわれの祖先がどうであれ、穏やかな内海沿いで発展してきたことは道理に叶うとおもいます。 瀬戸内海を睨む難波大阪の地は最近まで一貫して日本史の中心であります。(京都、奈良は川を経由してこの地に出れるという位置です。) しかし内海としては規模は小さいけれど文化の伝播はより早かったと思われる、有明海を囲む勢力圏に対して言及されることが少ないのを、本当に不思議に思ってました。 筑紫国が筑前、筑後になった際に、陸地が広がってきていた筑後川下流域を含めて、肥国が肥前、肥後になったといいますが、そもそもでいうと肥国は有明海を中心とした勢力の呼称ではないでしょうかね。 そうすると今度は日向が浮いてきてしまいますが、日向はこの時点では古事記の四面でいうところの肥国ではなく、熊襲国であったのではないでしょうかね。位置的にも、地勢的にもその方がしっくりきます。 肥後一の宮である阿蘇神社の伝承、阿蘇から高千穂へ抜けるルートにある草部吉見神社(弊立神宮に隠された下がり宮)の伝承などを合わせて考えると、神武東征の前に肥国と熊襲国の主権争いがあり、勝利したかまたは敗れて逃亡した神武が東征を成し遂げた後に、日向国を設置したのではないでしょうか。

女系天皇論と少子化

天皇という制度そのものが男系の継承を直接の目的としたものなので、「女系のそれ」を改めて「天皇」と呼ぶには新たな伝統を開始する必要がある。なんとなく老人男子中心の保守層が「伝統を!」と、女性を中心のリベラル層が「男女平等!」とかの感覚で討論され停滞している議論へ参加してみることしたい。 天皇制の発祥や目的が何であれ「不変のY遺伝子」の確実なトレースおよび遺伝子の残存本能に根付いて実行されてきたことに疑いを持つことは難しい。そういう状況に現代になって変化が加わる。  一つは「男女平等の下の一夫一婦制」 天皇Y遺伝子を維持する天皇制は一夫一婦制の下では存続が難しい。血統を確実に保存する「側室制度」を先にやめてしまっているのだから、彼の御一族は存続を破棄してるに等しい。 側室制度は厳密には廃止したわけではなく、「たかが四代百年前の」大正天皇の御代に停止してしまってそのまま制度化というのが実情なので、再開するという選択肢もある。 大正天皇の男子は5人いて、当時は「一安心」されたけど孫男子は2人、曾孫男子は1人になってしまったので、その「一安心」時期は過ぎ去り「側室をとらない」と言うご判断こそが「天皇制の危機」につながったとの認識をもち、側室を持つことにすればどうであろうか。 しかしながらこれはこれで難しい議論がある。「人民」の代表や象徴であられる存在が側室を持つとなれば、「一般にもある程度は」となるであろうからだ。神として特別視することも難しく、「模範たるべし」とするならいわずもがなだ。 もう一つは「DNA鑑定」である。身も蓋もないんだけど、これを考察して気がつくのは「DNA鑑定」に正確性を保証させることで、天皇制を終わらせたり、夫婦の解釈や定義を見直すことができるということだ。 ここではあえて、皇統の目的についてその開始時期の意志のようなものを慮ることで考察をすすめてきて、それを伝統をさかのぼったような解釈としているけど、「Y遺伝子なんてどうでもいいし、DNA鑑定があるじゃないか」というなら、その社会的な存在意義についてきちんと考察をする必要がある。そしてもちろん社会的な意義はあるし、廃止する理由は見当たらないから、この時代にきての天皇制の変更をすすめる「女系天皇」は「あり」となる。 地球が狭くなって少子化はもはや時代のニーズではあった。しかし

建日向日豊久士比泥別の謎③

大化の改新前後に書き換えられ隠された歴史の旅のキーワード。 4年ほど前の記事ではあるけど、リンクを張っていただいてアクセスが増えた。 https://artworks-inter.net/ebook/?p=3721 こちらを拝見して、この4年間で考察を進めたものの書くに至らなかったことを改めて文字に起こして書いてみようと思う。 最初に現在の結論 1,九州の島をチクシ、そこにあった国を「日」の国とよんだ。 2,そうしての「日」から「別」れたのがそれぞれ、白日別、豊日別、建日別である。 3,残る「建日向日豊久士比泥別」こそが別けられた元の国となる。  建日向ー日ー豊ー久士比ー泥ー別 「建日向」は勇猛な人に与える尊称 ※日本書紀:垂仁天皇五年      狭穂彦王の乱を鎮圧した将軍に「倭日向武日向彦八綱田」称号付与 「日」九州の国名 「豊」豊かなという尊称 「久士比」尊い霊。上位にある霊。 「泥」禰・みたまや 父祖の霊を祀った所 根とも、有明の泥とも 「別」地方名「県」のようなものここでは「国」 「勇猛な日であり豊かな尊い先祖の眠る土地である国」 白日別、豊日別、建日別はそれぞれ 白日別    疑いようもなくはっきりとそのまま日である国 豊日別    豊かな日の国 建日別    勇猛な日の国 「日向」という尊称がつかないし、根の国でもない。 肥前肥後の分断について(肥前肥後の境目は筑後川であること)   肥前肥後の間に筑後地方が挟まっていることについての疑問 縄文海進などの状況から筑後における土地形成は遅れており肥前肥後はそれ以前から海を隔てた海上交通がメインだった。日本随一の穏やかな海。 肥の国は最初から海を中心としており、「土地の分断」とみる現代的な視点とは折り合わない。有明海を中心として火国があった。 火の中心部が筑紫となり火より独立。 なぜ「肥」なのか? 火国より肥前肥後に改名 好字二文字を国名にする(和銅6年) 上代仮名遣いでは干=火=肥で読みは同じ。(日は氷などとおなじで別) 古代には火より肥のほうが好い字であった。 日の本の国との関係は 火=肥であり日ではない。 日はあくまでも九州全体を指す。 九州を筑紫島の「日」ヒ とすると、 四国は伊予島の「依」エ