めくれ上がりアルマゲドン リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 2月 22, 2025 米国トップダウンの改革開始機敏に追従できない永き良き傀儡 垢と苔の違い政官財の3アウト強い日本を継続することは英霊への約束であり日本人の義務である腐敗と硬化壊す覚悟この戦争の責任はあなたにもある リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
岩津の「鯰の歌碑」の謎 - 2月 13, 2015 ぐるたびサイト より岩津橋 徳島市内から国道192号線を池田方面に走り、川田を過ぎたあたりで、川幅がぐっと狭まり、吉野川は「岩津の淵」を成す。 平成五年に橋が架け替えられて、現在では面影も見えなくなってきているが、近世まで南岸の山川町と北岸の阿波町を結ぶ渡し場として、また吉野川を行き来する船舶の停泊地として利用されてきた。河口から40km遡って、川幅が一気に150mほどに狭まるこの地は、古来交通の要所であり、現代ならさしづめ、トラックターミナル、サービスエリアというところである。 さてほとんど素通りしそうなこの橋の北詰の西方に艀(はしけ)の遺跡や石灯籠が確認できるが、そこに不思議な「歌碑」が立っている。 阿波市観光情報(四国ネット) に説明がある。 『古代文字「鯰の歌碑」 郷土の先哲、忠君愛国の歌人岩雲花香翁が孝明天皇(1831~1866)に拝謁後、全国遊説中記念に自作自筆の詩を彫刻させ、この地に建立しました。岩津の淵の主であるといわれる大鯰にたとえて、日頃は目立つことがなくとも一朝事あるときは社会に貢献できる人間になってほしい、と書かれています。』 『郷土の先哲!忠君愛国の歌人!幕末に天皇陛下に拝謁後に遺した!神代文字の石碑!』 このキーワード群に惹かれて、「百聞一見」と期待満点で出かけてみたが、石碑もそこに書かれている文字もなんというか風変わりで風格がない。神代文字というより、ハングル文字にみえる。帰宅してすぐに好奇心でネットに潜った。 岩雲花香 (いわくもの はなか) 国学者、歌人である。17歳の時遊学の旅に出て諸国を回り、行く先々で国学者、歌人、文人らと会い、 国学を語り、 和歌を交換した。 江戸で平田 篤胤に入門し、篤胤の学説である皇統無窮と尊王攘夷論の影響を強く受けその思想を 伝えて旅をした。 篤胤の神代文学存在説を信奉し、研究を重ねて神代楷書の新50音図を創案。 岩雲花香の出身地、岩津(現阿波町) に ある 杉尾神社には自らが建立したという神代文字の歌碑がある。 また、稲田家の家臣に大きな影響を与え討幕活動の指導者を育てた。著書には、「八日の日記」 歌集「花鏡」などがある。 ●参考資料/(財)とくしま地域政策研究所「吉野川事典」 阿比留文字 でこう書かれて... 続きを読む
有明海の歴史 - 8月 26, 2019 大陸から海を渡ってきたわれわれの祖先がどうであれ、穏やかな内海沿いで発展してきたことは道理に叶うとおもいます。 瀬戸内海を睨む難波大阪の地は最近まで一貫して日本史の中心であります。(京都、奈良は川を経由してこの地に出れるという位置です。) しかし内海としては規模は小さいけれど文化の伝播はより早かったと思われる、有明海を囲む勢力圏に対して言及されることが少ないのを、本当に不思議に思ってました。 筑紫国が筑前、筑後になった際に、陸地が広がってきていた筑後川下流域を含めて、肥国が肥前、肥後になったといいますが、そもそもでいうと肥国は有明海を中心とした勢力の呼称ではないでしょうかね。 そうすると今度は日向が浮いてきてしまいますが、日向はこの時点では古事記の四面でいうところの肥国ではなく、熊襲国であったのではないでしょうかね。位置的にも、地勢的にもその方がしっくりきます。 肥後一の宮である阿蘇神社の伝承、阿蘇から高千穂へ抜けるルートにある草部吉見神社(弊立神宮に隠された下がり宮)の伝承などを合わせて考えると、神武東征の前に肥国と熊襲国の主権争いがあり、勝利したかまたは敗れて逃亡した神武が東征を成し遂げた後に、日向国を設置したのではないでしょうか。 続きを読む
建日向日豊久士比泥別の謎① - 1月 28, 2015 「林兼明 神に関する古語の研究」 最終章より,以下の著述を発見した。 とりあえず、そのまま書いておく。解説は後日。 日本民族が天日を仰望讃歎して東遷運動を起してより最先第一に逢着せる憧纉の瑞島は即ち筑紫の島なりき、 故れこの島をその理想によりて 「日の国」 と名づけたり。 筑紫国、 豊国、 熊曾国等は後世その「日の国」の別称又は地方的特称として追補せられたるものなり。然して「肥国」は原語のま、に正しくその遺影を伝えたるものなり。 この筑紫の四面の名の等しく 「日の国」 なる同一根源より出でしとは、 古事記に明記せる右の別名即ち白日別、豊日別、建日向日豊久士比泥別、建日別の名によりて確証せらるるものなり。 なほこの別名中「肥国を建日向日豊久士比泥別と謂ふ」とある古事記の原文に何等かの錯簡あるが如く論ずる学者あれども、そは然か論ずる学者の頭脳に錯誤あるなり。茲に 「肥国」を挙げて別に「日向国」を挙げざるは、両国共にその本は「日の国」にあり、「肥」の字は単に「日」の意を表はす為の借字たるのみなるが故なり、即ち曰向を脱落せるにあらず「日向」と「日の国」と全く同一同義同一境域なるが為なり。 抑も筑紫といひ、豊といひ、曾といふ、その始めは何れも別に地方区画を指ずの名にあらず、単に「日の国」、即ち「肥の国」の形容修飾の語たりしなり。然るに後世、 国郡制置の頃に及び、便宜上その形容修飾の語を分ちてその小区画の名に借りたるのみ。然れどもその原義の消滅泯亡せざらんが為に、懇篤にも古事記には白日別以下の別名を附して曩始の大本を顕示したるなり。 このうち「建曰向日豊久士比泥別」の名は「建日 向日 豊奇曰 根別」の義にして 「等しく天日により天日を以て国を称ヘたる中にも、この 「肥の国」 はその名の基づく根本を示国名なるぞ」と云へるなり。 かくて後ち、この「日の国」のうち東面直ちに旭日に向ふ反面を割きて「日向国」と称ヘ別け、筑紫、豊、熊曾等を次々に宣り別けたるなるベし。 但しこの日向国は「日の国」と一身同体同義なるより、時に「日の国」 即ち上古の筑紫洲の総名にも用ひられたること多かるベし、乃ち古事記神代巻の 「筑紫日向の橘の小門の阿波岐原」 ゃ 「筑紫日向髙千穂の久士布流多気」 等のH,何は 九州の総名なるベく、 またこの場合の筑紫は恰も日向の修飾語の如き用を成せり。 (筑... 続きを読む
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