ハロウィンと”あげたかな”

ハロウィンの祭りそのものは古代ケルトまで溯源できるらしいが、
ジャック・オー・ランタンとトリックオアトリートに代表される現在の
形式になったのは、近現代のアメリカ合衆国においてとされる。
しかしながら、そんなに近い時代の先進国における行事にもかかわらず、
この形式になるにあたりはっきりとした経緯は、決め手にかける話ばかり、
その由来不詳の新興国発祥のお祭りは、当然メインプレイヤー不在であるが
ゆえか、商業的な各方面からのあおりをうけ、近年異様な盛り上がりを見せている。
ここでは、世界で最も古くからの文化を継承しているといえる我が国が
領内に軍事基地を受け入れてる同盟の新興大帝国の文化に染まりながら、
自分らしさを失っていくさまを、儚みながらも、語られることのない、
一つの敗者側の文化の継承の可能性を残しておく。

さて”あげたかな”は、熊本を中心に残る”お月見”の風習で、旧暦8月15日の夜に、
小学生の子供が集団で、ご近所の家々を周り、玄関先で”あげたかな”と叫ぶ。
そうすると、口コミで伝わってる人数分用意しておかれるお菓子が配給される。
子どもたちは大袋をもって大騒ぎしながら近所を徘徊するというお祭りである。
水害で有名になった福岡の朝倉の一部とか、地震で有名になった熊本の益城町の周辺、
阿蘇地方まで、現地の人に聞いても由来のはっきりしないほのぼのとした奇習である。

月見といえば、花見と並ぶ日本の大事な風習であったはずだが、個人宅がLEDで
電飾される時代に生きてれば廃れた理由など触れる必要はないと思われる。
「十五夜お月さま~♬」の歌謡や、かぐや姫が月に帰る夜と言われれば、
うどんやハンバーガーに触れてなくても古来日本に根づいた文化であったことは、
伺える。
縄文人が月を信仰してたという話は置いておいても、中国では唐代からブームに
お月見のお祭りを奈良平安朝に伝えられ、宮廷貴族は夜を通して宴会をしていた。
室町時代になると一旦落ち着き、江戸時代になると庶民が団子や芋などを、
お月さまにお供えするようになり、花街では一大イベントとして、ハロウィンぽく
盛り上がる。

そんなお月見の歴史でなぜ、子供がお芋や団子(近年は市販菓子)を貰える
イベントに変節を遂げ、九州の一部の農村にだけ継承されているのだろうか?
事由としては3つほど思い浮かぶが、ここでは列挙するにとどめておく。
1)中世から子供を大事にし続けるほど豊かな風土が継続していたことと。
2)現代の都市化による地域社会の崩壊がおこなわれていないこと。
3)唐代より民間の日中貿易は九州で行われたこと。

一方合衆国大衆文化としてのハロウィンがなぜはっきりしないかというと、
おそらくキリスト教的な歴史感で語られるからそうなるわけで、
ジャック・オー・ランタンなど、ケルト教ゆらいならそもそも異教徒由来では
あるまいか?そうであれば、スコットランド、アイルランドにて、キリスト教的
価値観に上塗りされた故郷にのこる独自の風習を、懐かしむ移民たちが始めたのではないか。なんだかんだWASPが主流の米国社会でケルト由来の風習は、敗者の歴史であり、
起源に設定されることは少ないのではないのか?

さてのその勝者の歴史によると、トリックオアトリートは
9世紀頃に、キリスト教信徒が家々にケーキを乞い回っていた「Souling}を起源
としてるが、それが期限となるなら、むしろ托鉢のほうが近いのではとおもってしまう。
つまり無理がある。キリスト教的歴史感では秋の夜に子供が他人宅に押しかけて、
お菓子をゆするという風習はないといえる。

書いたように日本の九州には残ってるけど、これは日本でもかなりマイナーで1000人に
一人しか知らないような風習になってる。
現代のハロウィンが生まれた19世紀後半から20世紀前半の移民の国合衆国へ、主に神戸から出航して移民していった人たちで、もっとも多かったのは九州出身の人たちで、中でも熊本の人が最多であったらしい。南米ではお月見の風習は日系移民の文化として広まってるようである。

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