人間を「開発する」文明の衝突

人間開発とは国連の定義では
「人々が各自の可能性を十全に開花させ、それぞれの必要と関心に応じて生産的かつ創造的な人生を開拓できるような環境を創出することです。 人々こそがまさしく国家の富なのです。 各々にとって価値ある人生を全うすることを人々に可能とする、選択肢の拡大こそが開発です。」
さてここベトナムに暮らしてのべ三ヶ月、「人間開発」ということについて考えてみた。
誕生してから、周囲の環境、つまり家庭から社会というのは、社会が与えるべき教育制度を深く鑑みるべきである。
 人間としてのあり方とでも言うべき人格教育は、師から受けるものとなる。国家体制に変更を求められたベトナムには「師」が不足して、若い世代は外国文化を求めようとする。日本でも同じ状況はあったが、紡いできた歴史の長さ、民族の経験値からくる複雑な社会構造は日本の文化遺産といってもよいほど、日本を中心とした文明は、外国からの影響を受けながら、逆に外国に評価されることにより、日本人は自信を取り戻し、自らのあり方を世界に示しつつある。
 一方で比較される韓国は、一見、国連の数値上も似たような発展具合と人間開発指数をもってはいるが、自らの力で文明を進化させるには、文明と社会と人々の精神は幼く、他国に依存する形で歴史を過ごしてきたために、近年の大国間でのキャッチボールで翻弄され、想像しがたい未来を迎えることになりつつある。
 ベトナムはどう考えても海洋国ではない。大陸国家となるべき歴史と資質を持っている。ドイモイが加速し、国が開くにつけ中国の後を追うようになってしまうことは必然ではあるが、中国の結末が見えたこの時期まで、国を閉じ続けることにある種成功したのはたいへん幸運なことであった。
一方で南国の穏やかな気質が共存し、大陸国家としての可能性を北方の大国に示せる資質を持っているとも言える。
 ベトナム人に自信を持たせることはできるのか?自信をもたせた結果、不幸な過去の経験が自らを傷つけることになるのは中国の経験を見ればよく分かる。変な自信は必要ない、誇るべき歴史はこれから作っていく、そのためにベトナム人に必要なのは師である。

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